| | | | 2001年に結婚して日本テレビを退職し、今は3歳と1歳のふたりの娘を育てながら、ライフワークとしてハンセン病についての取材や講演などを続けています。子育てと仕事の両立という意識はなく、子どもを抱えつつ、やりたいことをしているという感覚です。専業主婦になって最初に感じたのは、1日のスケジュールを自分で決められるんだという驚き。面白くしようと思ったらいくらでもできる、発展可能性に富んだ立場だと思うし、もう一度大学で勉強するなど、したいことがたくさんあり、どう時間配分すればいいか悩むくらいです。 幸い、私が出かけるときには、千葉に住む義父が週2回ほど子どもの面倒を見に来てくれますし、新宿区のファミリー・サポートセンターも週1回利用しています。また夫は、毎朝、掃除機をかけたり、休日にお風呂の壁掃除などをしてくれます。子どもに対しても、毎晩、絵本を読んだりしてかわいがるだけでなく、最近は本気で怒ることもあるくらい子育ての面倒くささをわかってくれて、私としてはうれしいんですよ(笑)。 | | 私自身は、子どもの成長過程で少しは一喜一憂することもありますが、他の子と違うからと過剰に悩むことはないですし、その子のペースを認めてあげる大人でありたいですね。もし、子どもに障害などの問題があったらショックは受けるでしょうが、前に取材を通じて、知的障害者と言われる人たちの家族の前向きさや人間的な深さに触れ、何も恐れることはないという気持ちになりました。 | | | | アナウンサー時代は自分が自己実現することばかりを考えていましたが、記者に転向して初めて世の中に興味を持ちました。きっかけは、1995年の阪神淡路大震災でしょうか。バラエティ番組の担当だった当時、初めてのニュースレポートで震災が起きた神戸へ行ったんですが、一瞬にして街がなくなってしまった現場を見て、何と説明したらいいのか言葉が出ず中継はボロボロでした。でも、それが見ていて自然だったようで「よかったよ」と言われ、私でも伝えることができるんだと、わずかな自信が芽生えた気がします。 『女子アナ失格』という本にも書きましたが、テレビ局時代は失敗の連続でした。でも、失敗や挫折をしたからこそ人の気持ちがわかると思うので、そうした経験は取材に役立っていますね。ハンセン病の取材は1997年ごろから始めましたが、それまでテレビでほとんど報道してこなかったことに腹が立ちますし、元患者の人たちを隔離する政策を何十年も放置してきた責任は、マスコミにもあると思います。 言いたいことがあったら口に出して言ってみることが大事で、はじめは何かモヤモヤしていても、言っている間に気持ちが整理され、ボキャブラリーも増えてきます。言語化しないと存在しないことになってしまうので、これからも「何かヘン」と思ったら、それを突き詰めて声に出していきたいですね。 | | | | 阪神淡路大震災の取材経験から、天災が起きてしまったらなすすべはないと痛感し、家族のために何日分かの缶詰を用意するより、被災したみんなと一緒にどう生き延びていくかを考えるようになりました。もし震災で生き残ることができたら、炊き出しや情報の整理・伝達をするなど、私は動く係にならなくてはいけないと思っています。特に私は自衛隊員の妻ですから、毎年、親子一緒に防災訓練を受けていますし、災害のときには自衛隊員の家族はみんな、先頭に立って奉仕する立場だと自覚しています。娘も、子どもたちのリーダーになって下の子たちを守れるように、たくましく育てたいですね。 うちの近所には急な狭い坂道があって、人はわさわさ歩くし、それを縫うように車がバンバン通る”無法地帯“なんです。それでもそこで生活しなければいけないので、子どもにも危機管理能力を身につけてほしい。最終的には、自分で身を守るしかないんでしょうね。家の中でも、知らないうちに下の子が飲み込んだみたいで、ウンチから1円玉より大きなおはじきが出てきてゾッとしたことがありました。何でも口に入れてしまうので、しょっちゅう子どもの口を開けて見てるんですけれどねえ…。そう考えると、上の子をよく今日まで生かすことができたなと思いますが、過剰に心配しても何もさせられないし、私もそうだったように、小さな被害から学習して成長していくんでしょうね。 | | | | ●やぶもと・まさこ | 1967年京都生まれ。早稲田大学卒業。'91年に日本テレビに入社し、アナウンサーとしてバラエティ番組などを担当するほか、同僚と3人で「DORA」を結成してCDデビューも。'95年に「きょうの出来事」で阪神淡路大震災をレポートし、以後、取材に携わる。'98年に報道局へ異動して記者になり、当時開始したハンセン病の取材は現在も継続。'01年に退職。'05年に著書『女子アナ失格』を発表。 | | | | | | |